赤膚焼とは
赤膚焼の歴史
赤膚焼の始まりはたどると垂仁天皇の頃にまでさかのぼります。
赤膚焼を産出している五条山の付近一帯は製陶の素材として古来よりとても良いとされております。
古代の日本では、皇族や貴族が亡くなられると死者を悼み、死後も淋しくないようにとの願いをこめて、その従者や妃等がともに殉死する風習が広く行われていましたが、日本書紀によると、垂仁天皇の二十八年に、弟君である倭彦命(やまとひこのみこと)を葬った時、その陵域に生きながらに人々が埋められた様子があまりに悲惨であったので、慈しみ深い垂仁天皇は非常に心を痛められ、こうした殉死の習慣を無くしたいものだと考えておられました。垂仁天皇の三十二年に皇后、日葉酢媛(ひばすひめ)が逝去された時、野見宿禰(のみのすくね)の献策によって、従来の殉死の風習を改め、埴輪を立てることになりました。野見宿禰は出雲から土師部100人を呼び寄せ、埴輪づくりを行っています。そこから作陶の歴史がはじまりました。
現在の赤膚焼の形ができるきっかけとなったのはその後、安土桃山時代まで時が流れまして、豊臣秀吉公の弟である秀長卿が1585年、茶道具を作るよう命じられ赤膚の地で生産が始まりました。
その際、尾張常滑の陶工である与九郎という方を招いて五条山独自の登り窯を始めたとされています。その後皆さんもよくご存じの、京焼で有名な、仁清が当地において種々工夫を重ねて発展させたとされています。
さらに赤膚焼の名が知られるきっかけとなったのは郡山藩主柳沢家の御用窯となったことがきっかけとなります。
武士にして画人としての才に溢れた柳 里恭(りゅうりきょう)、別名 柳沢棋園(やなぎさわきえん)の影響もあり、遠州七窯の一 として世に喧伝されるに至りました。
遠州七窯は千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となった小堀遠州が好んだとされる七つの窯のことです。赤膚の他に志戸呂、膳所、朝日、古曽部、上野、高取とされております。
昭山の特徴
赤膚焼窯元 大塩昭山は、現存する奈良県の認定を受けた6件の赤膚焼窯元のひとつです。
その中でも、奈良県伝統工芸士に認定された作家と職人の2名を有する唯一の窯です。
赤膚焼の歴史に沿って茶道具の作成に力を入れておりますが、昨今の需要にも合わせ、自宅の日常でも活躍できる、酒器などにも力を入れております。また、茶道具の意匠としても、お茶席だけでなく、日常の食卓などでもお使いいただきやすいデザイン、機能性も重視しています。
奈良絵
赤膚焼の特徴は上絵付として奈良絵を施すこともあります。奈良絵の由来は、実はお釈迦様の生涯を描いた過去現在因果経を漢訳し、そこに経文の絵解きを添えた絵因果経を手本にしたものです。
上下二本の赤い線の中に絵因果経に描かれている人形や家、松がデフォルメされて描かれているものが多く、さらにそこに奈良の風景や鹿、昔の物語などといった、色々な紋様を組み入れています。
当窯 大塩 昭山では正倉院の宝物に描かれる瑞鳥のモチーフなども描くことが多く、鳳凰や鵲、鴛鴦など、さまざまな瑞鳥の絵をあしらっています。その際、宝相華をくわえている鳥の絵が多いのですが、天上の世界から地上に幸せを運ぶという意味合いもございます。
登り窯
私どもの工房、大塩昭山では作家の作品を作る際に伝統的な焼成法である登り窯での焼成も行っております。胴木間(どうぎま)と呼ばれる大きな窯口に薪をくべ火をおこし、1200度まで温度を上げていきます。徐々に後ろの部屋に炎が上がり、各部屋にも順に薪をくべて焚き上げていきます。昭山では3部屋を有する登り窯で焼成しており、焚き上がるまでには3日3晩、窯と向かい合い続けます。
その苦労の末に焼き上がった作品は、電気釜と違い、自然の織り成す還元反応により深みのある釉薬の色へと変化します。
日本各地でも、どんどんと廃止・縮小されている焼成法ではありますが、この伝統の焼成法を大切に繋いでおります。